イクジな日々、おシゴトな時間。

「会社での仕事」そして「育児」という2つのおシゴトに追われながらも、「子の成長」そして「私自身の成長(いわゆる「育自」^^)」を楽しんでいきたいと考えている、Working Motherが綴るblogです。
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いのちを大切にできる子に育つか

「死んだ金魚をトイレに流すな」という本を読んだ。

死んだ金魚をトイレに流すな―「いのちの体験」の共有 (集英社新書)死んだ金魚をトイレに流すな―「いのちの体験」の共有 (集英社新書)
(2009/02)
近藤 卓

商品詳細を見る


きっかけは、NBOnlineで紹介されていたからだが、紹介文を読んで、この本は自分は読んでおかねばならない、と思った。
著者は、昔は飼っていた金魚が死んだら、庭に埋めて、簡単なお墓を作り、手を合わせるのが普通だった、という。それが今は、トイレに流してしまう親が少しずつだが存在し始めている、と指摘する。
私は今、金魚を買っていないのだけど、もし、金魚が死んでしまったら、その金魚をどうするんだろう、と考えたときに、自分は非常に心もとないと思ったからだ。

この本をひととおり読んで、この本を読み流してはいけない、と思った。
こどもを育てている母親として、自分の子が、自殺したり、殺人をしたり、するような子に育たないように、心の育ち方のメカニズムのようなものや、母親にできることがあるのであれば、それを知っておかなければならない、と思ったからだ。

それで、順不同にではあるが、もう一度読んだ。
自分のblogでも記事にしなくちゃいけない、と思った。

ということで、この本を読んで思ったことを書いてみます。

★基本的自尊感情
この本を読んで、まず気になったのは、自分自身が「基本的自尊感情」を持っているのだろうか、ということだった。
著者は、いのちを軽く考える若者は、セルフ・エスティーム=自尊感情が欠けている、という。ここまでは、私も、他の育児書で知識があったことだが、それに加えて、著者は、自尊感情には「基本的自尊感情」と「社会的自尊感情」がある、と指摘している。
ここでいう「社会的自尊感情」というのは、自分は(他人と比べて)相対的に優れている「自分はできる、役に立つ、価値がある」、という思い込みのことらしい。それに対して、「基本的自尊感情」というのは、自分は(どんな状況におかれようと)生きていてかまわない、「このままでかまわない、自分は自分なんだ」」という思い込みのことのようだ。
「社会的自尊感情」というのは持たせることも簡単であるが、崩れることも簡単だと著者は指摘する。比べてほめることは自信につながるが、他人との比較において永続的に勝ち続けると言うことはありえないからである。
ふりかえってみると、私は自分のことを「役に立つ人間になりたい」「価値のある人間でいたい」ということを強く思っているし、社会人として生活できている以上は、自分はそういう人間なんだろうな、と思っている。これは「社会的自尊感情」なのかもしれない。だから、もし、私も働くことができなくなったとき、それでも、自分が生きていていいと思えるかどうか、自信がない。というか、案外それでも生きていくと思うのだけど(家族もいるし、ずぶといとこもあるので)、相当に落ち込むこと、そして、心が荒れることは間違いない。
それに、今、自分で、案外生きていくと思う、と書いたけど、本当にそうなのかな、と思う。例えば、失業がきっかけで自殺する人たちもいるわけだけど、私だって、極限の環境になれば同じように考え同じ行動を起こさない、とは言い切れないような気がするのだ。
だから、最初にこのあたりを読んだとき、私は「社会的自尊感情」が強い人間であることは確かだ、と思った。そして、自分には「基本的自尊感情」がはたしてあるんだろうか、と非常に自信に乏しい気持ちになった。(その後で、なんどもこのことを考えた結果、たぶん、私には「社会的自尊感情」という方が強いのは確かだが、「基本的自尊感情」もそれなりにあるはず、という結論に至っている。)

★子どもは10歳~12歳の頃、いのちについて考える
それから、この本で指摘された興味深いことは、「子どもは10歳~12歳の頃、いのちについて考える」ということである。
どうして人間は生きているのか、そして、死ぬのか、そして、自分は生きている価値があるのか、いのちの秘密を知りたい、みたいなことを考えるらしいのである。
そして、このとき、子どもがどういう結論をだしたかで、その後、いのちを大切にできる子に育つか、育たないか、が決まってくる、というのである。
著者は、子どもには「いのちを大切に」と伝えても仕方がない、いのちは平等というのはウソで、一番大事なのは自分のいのち、つまり、「キミが大切だ」ということが伝わらなければならない、という。

小さな子どもが虫を殺す、あるいは弱っていく様子を観察するのは、いのちの過程を確かめる行為であることが多い、という。(そうでない場合もある。単にストレスを解消するためにやっていることもあるからだ)
それをみた母親は子どもを残酷だと心配することが多いが、それはそのうちやらなくなることであるから、心配する必要はないらしい。
人間には、根源的に、いのちの秘密を知りたい、という欲求があるのだという。(その欲求に歯止めが効かなくなったのが、サディズムであるらしい)

そして、身近な人間が死んだとき、誰かが何かに殺されたりしたとき、その事実自体には色はない。
が、子どもは衝撃を受ける。いのちを失ったということは、衝撃的なことである。
それに対して、親などの身近な大人が、「悲しい」、「かわいそうに」等という感情を示すことで、子どもはその感情を共有し、安心する、ということなのである。
死人を丁寧に弔うということも、いのちを失った悲しみを浄化させるための大切な儀式である。
だから、死んだ金魚をトイレに流す、という行為は、身近な命がトイレに流せるほど軽いものだと、子どもに伝えているようなものだと、いうことなのである。

感情の共有、と言ったが、それは、親に限らず、友達との共有体験、ということもありうる。
著者は、映画「千と千尋の神隠し」や「ハリー・ポッター」、「スタンド・バイ・ミー」の主人公たちを例に挙げている。
友達と一緒にいのちの秘密について、体験を共有することで、成長する、というのである。
このときの「友達」は単にそこにいた同世代の子ども、ということではなく、ふだんから一緒に遊び、信頼しあえているような子どもということが必要らしい。

★私のいのちに関する経験
そして、私自身をふりかってみると、10歳~12歳頃、何か考えたかというと、覚えていない、というのが正直なところだ。
ただ、映画では、「はだしのゲン」のアニメを見て(いつか忘れたが、小学生のときだったのは確か。たぶん、3~4年生だと思う)、原爆に落とされた町のシーンが異常に怖かったことは記憶にある。(このシーンは、原体験に近い感じで、自分の記憶にこびりついている感じがする)
あと、言われてみれば、中学生のとき初めて見た映画が「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」だったのだが、その中で、異教の儀式で、生きた人間の心臓を掴み取るシーンがあったのも、かなり怖かった。(こっちは今回指摘されて、無理やり思い出したような感じ。)
いずれにしても、10~12歳のど真ん中ではないのですけど、まあ、この辺が近いんでしょうかね。
「はだしのゲン」は公民館のようなところで近所の子どもたちを集めて上映という感じだったので、あんまり共有体験できてるとは思えないんですけど、まあ、一人で見てないだけでもよかったんですかね。きっと終わったあとに「気持ち悪かった~」くらいの感想はとびかってたでしょうから。
「インディ・ジョーンズ」は母親と行きましたので、これが共有できている、というのやら、どうやら。感想は話し合ったかな~。ただ、あのときは「こわかった」というのは誰にもいえなくて、「おもしろかったよ」とピアノの先生に報告してた気がする。(もともとピアノの先生が「おもしろかったよ」と言ったので観にいったのかもしれない)

それから、身近な人の死、というのにもなかなか立ち会わなかった。
生き物は、セキセイインコを飼ってて、死んだのは覚えている。確か、それは、お墓を作って埋めました。お父さんが埋めたような気もするけど、そうじゃなかったような気もする。近所の子にお墓の位置を教えてたような気もするけど、それが埋めるときに立ち会っていたのか、埋めた後の話だったのかは覚えていない。
人間の死、ということでは、私のおじいちゃんが死んだのが、23歳のときで、それが初めての身近な大好きだった人の死だったから、ずいぶん遅いような。ちなみに、その後も、身近で大好きだった人の死は訪れていない。
もちろん、身近な人の大切な人がなくなることはあって、お葬式には何度か出席している。
高校生のとき、クラスメイトのお母さんがなくなって、それは少し衝撃だったことを覚えている。それはどうやらそのお母さんは自分で命を絶たれたのかもしれない、と思う節があったのと、その命日が私の17歳の誕生日だったからだ。でも、正直なところ、そのクラスメイトの悲しみまでは思いやれなかった。彼女がクラスメイトの中ではそれほど親しい関係になかったこともあるが、私自身が人が死ぬショックというのを自分に置き換えて考えられなかったからだ。(もちろん、悲しいだろうな、大変だろうな、というのは概念として知っていたけれども。その本質的なところまで迫れるだけの経験が当時の私にはなかったので)

だから、そういう意味ではやっぱり私は、著者が指摘するようないのちの体験をちゃんとしていないような気がする。
著者は、10歳から12歳頃までの「いのちの体験」が人生のレールをふたつに分ける、と言っている。
10歳から12歳までの「いのちの体験」が希薄という意味では、私は、いのちの大切さを実感できない子ども、としてレールを歩き始めたような気がする。
確かに、私は、冷たいところがある。

でも、たぶん、私は、著者のいう「基本的自尊感情」が低いながらも、なんとなく自分は自殺もしないし、殺人もしないだろうな、という気はしている。
その根拠を別の記事でまとめてみたいと思う。


当たり前のことなのかもしれませんが、そういう環境が減ってきたからこそ、このようなテーマの本があるんでしょうね。

生き物は死んだときに、お墓に埋めたいところですが、埋められそうな土地が近所になさそうというのが、今の私の現実で、自分のころは多少なりともあったので、そういう物理的な環境からして、結果そういうことをする人もいるのかもと勝手に推測してみました。
【 2009/05/18 (月) 】 編集
なるほどね。
私が死をはっきり自覚したのはもっと小さい頃なんです。父方の祖父が(たぶん)小学1年か2年の頃に亡くなっています。そのとき「人間はいつかいなくなってしまうのだ」ということを感じるという経験をしたことを今でも覚えています。

うちはハムスターも飼っていますが、ハムって寿命短いので本当にかわいそうだと以前彼女は言ってました。でも可愛いし、新しい子を迎えるのは嬉しいのでまた飼うのですが。

>比べてほめることは自信につながるが、他人との比較において永続的に勝ち続けると言うことはありえないからである。
これ、私はピアノを続けてて身を持って体験しています。どっちかというと勝ち続けないほうが多いですが(笑)
【 2009/05/18 (月) 】 編集
ななこさんへ
コメントありがとうございます。
物理的な環境というのは確かにあるでしょうね。庭のないおうちだと、死んだ生き物を埋めていい場所なんてなさそうですもんね。
実は、上にセキセイインコを埋めた話を書きましたが・・・、実は、マンションの共有の庭に埋めたような記憶があります。当時は、集合住宅自体が多くなくってマナーにおおらかだったのか、また、マンションは子どもの育つ場という共通認識があったのか、それで人に咎められたという記憶はありません。もしかすると、ご近所づきあい(ご近所さんの目)、なんてところも、せせこましい感じに変わってきたように思います。
【 2009/05/19 (火) 】 編集
ことなりままっちさんへ
コメントありがとうございます。
「死」の経験って、本当にパーソナルなものだし、私もこういう本に出会ったり、blogという自分の文章を書く場がなければ、ふりかえってみることもなかったと思います。
きっと、小学1年生で、おじいさまの死に会ったというのは、衝撃だったでしょうね。
ペットを飼うことも、(いつかは死んでしまうので)「死」ということを考えるきっかけになることが多いのでしょうね。うちもいつかはペットを飼うのかなあと思いつつも、この本を読んでしまったので、飼う踏ん切りがつかないかもしれません^^;
勝ち続けない、というのは、本当にそうだと思います。狭い集団の中では、自分が優れていると思える要素でも、世の中に出れば、自分くらいの人はごろごろいることを、私も思い知らされました。とはいえ、そういうことを思い知らされた経験があるからこそ、自分に謙虚になれ、狭い集団に戻っても、天狗にならずにすんでいると思ったりもします。
【 2009/05/19 (火) 】 編集
このテーマ、非常に重いものですよね。考えさせられます。
うちも、よく考えると、簡単にペットを飼えないなあとおもいます(私も夫も飼った事ないし)。かといって、命を考えるためにも、本当は飼ったほうがいいのかとも思いますし。
私もそうだったのですが、同僚のお子さん(小2)がいきなり「死ぬのが怖い」と、近所の葬式に参加して言ったそうです。いつかはそういう経験もしなきゃいけないし、そのときに親がいろいろ話さなきゃいけないんでしょうね。
ちなみに、我が子たちは、すでに幼少にて、勝ち続けられない人生であることを悟っています(運動神経がはるかに鈍いため)。たまにオールマイティにそつなくいろんなことをこなす子を羨ましくも思いますが、まあ、まったく挫折のない人生もありえないのだろうから、早めに挫折を知っておいて、よかったと、逆説的に思うことにしております。人生長いから、いつ、どうおもうかなんて、わかんないしね。
【 2009/05/20 (水) 】 編集
ちゃいさんへ
コメントありがとうございます。
ペットのことですが、うちの場合は、子どもの頃犬・猫を飼うのは禁止の集合住宅に住んでいたこともあって、セキセイインコ、金魚、カメ等の世話のしやすいペットを飼っていました。もし、飼ってみるならそんな小動物がいいかもしれませんね。でも、そもそも人間以外の生き物を飼うというのは、いっしょに生きることで(家畜、番犬のように)何かの役に立つとか、癒しを求めて飼うのだと思うから、命を考えるためというだけならわざわざ飼う必要はないように思います。
子どもが「死」に向き合ったときに、自分が側にいたとして、適切な態度をとることができるか、全く自信はないんですけど、たまには今回記事に綴ったようなことを考えることで、なんとか誠実に話ができたらなあ、と思ったりします。
勝ち続けられない人生、ということも、誰もがいつかは気づくことですよね。それでも、自分には生きているだけで価値がある人間なんだと、思い込んでもらえるよう、親としては、日常生活の中でそれとなくそんなメッセージを発信し続けていけたらなあ、と思います。
【 2009/05/21 (木) 】 編集
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  :外のお仕事も家のお仕事も頑張ってくれています。
★息子(8歳♂)
  :2005年生。食アレっ子ですが、食べられるものは増えてきました。
★娘(3歳♀)
  :2010年生。いつのまにか成長している我が家のお姫様。

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